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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> b. 研究会 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
第5回「古代・中世の神道・神社研究会」(『古代の神社=青木遺跡研究集会』) 
公開日: 2004/6/26
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1 開催目的

「8世紀後半・9世紀初頭における地方神社の存立形態をさぐる」
― 島根県青木遺跡の発掘から見えてくること ―
 古代の地域における神社の存立形態は、文献史料が限られており、明らかにすることが困難であった。今回発見された島根県青木遺跡の豊富な遺物資料は、ここに奈良後期から平安初期の間、社殿を伴う神社があったことを確実に推測させるものである。発掘された考古資料と文献史料を通して、具体的な古代神社の地域社会における存立形態を探り、あわせて、出雲地方や房総地方の祭祀関連遺跡との比較も試みる。
 青木遺跡は神社神殿のほか、関連施設、および祭祀関連と考えられる井戸遺構など、神社形態の枠組みを再考できる内容をもっている。そして、祝の活動や出雲郡伊努郷・美談郷の地域住民の信仰形態まで考察できる貴重な遺跡である。本プログラムにおける古代神社論の研究は、文献史料が豊富になる奈良後期から平安初期を主たる対象としているが、このなかで青木遺跡を基本に押さえておく必要がある。
 今回の研究集会では青木遺跡を、とくに古代神社論のなかで把握する基礎作業をしておきたい。(岡田 莊司)

2 開催日時

 平成16(2004)年5月29日(土) 13:00〜18:00

3 開催場所

 國學院大學院友会館・3階大会議室

4 発題者・批評者・司会(敬称略)

 発題者
 松尾 充晶(島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)
  「出雲・青木遺跡の祭祀について」
 錦田 剛志(島根県立博物館)
  「出雲地方における祭祀空間 〜奈良・平安時代を中心に〜」
 笹生 衛(千葉県立安房博物館)
  「房総地方における祭祀空間 〜奈良・平安時代を中心に〜」
 早川 万年(岐阜大学)
  「出土文字資料・関連文献史料からの考察」

 批評者
 小倉 慈司(宮内庁書陵部)
 川原 秀夫(明和学園短期大学)
 牟禮 仁(皇學館大学)
 藤森 馨(国士舘大学・事業推進協力者)
 杉山 林継(事業推進担当者・本学教授)

 司会
 岡田 莊司(事業推進担当者・本学教授)

5 会の詳細

5-1 発表の概要

 出雲・青木遺跡の祭祀について(松尾氏)
 島根県出雲市東林木町の青木遺跡で行われた調査では、8〜10世紀前後の土層から、
 ・神社と推定される柱材が残る9本柱の建物跡
 ・丁寧な作りの石敷遺構を持つ井戸
 ・「売田券」と記され、「佐位宮」の税が納められないため1段(約10a)の田を進上したと解釈できる木簡
 ・出雲郡伊努郷を推定させる「伊」や、式内社美談神社の存在が想起される「美社」などと記された膨大な数の墨書土器
 ・正笏した20cm足らずの男子立像
  など、数多くの注目すべき遺物が出土した。このことは平成15(2003)年10月にすでに報道発表されており、様々な検討もなされているが、今回松尾氏は、発掘調査を実施した立場から、遺構及び遺物出土状況の整理を行い、立地状況・交通路との関わりも含めた網羅的な報告をした。青木遺跡の特徴として、遺構は通常の倉庫や集落に伴うものとは考えにくい点、神社推定遺構が機能したのは8世紀後半から9世紀初頭までであり、長くみても50年という短期間と考えられる点を指摘し、出土遺物は圧倒的に饗膳具が多く、ある程度の集団による饗食が認められる点を示唆した。
松尾充晶氏

 出雲地方における祭祀空間 〜奈良・平安時代を中心に〜(錦田氏)
 神祇祭祀の空間を考える資料として、文献史料、考古資料の両者から推察される当時の様相を論じた。文献史料においては『出雲国風土記』の記述から、場所・施設を分類・抽出し、その諸相を整理した上で、問題の所在を明確にした。併せて、考古資料からの考察においては、青木遺跡に近い時期の祭祀関連遺跡の事例を概括し、考察を加えた。
錦田剛志氏

 房総地方における祭祀空間 〜奈良・平安時代を中心に〜(笹生氏)
 地域内での集落と祭祀の場所の位置関係、集落と祭祀空間、祭祀遺跡と神社という3点を中心に、房総における祭祀空間について報告した。青木遺跡の神社推定遺構が機能していた8世紀後半から9世紀代は、東国においても、集落・地域の中で祭祀が大きく変化していく時期であることを示唆した。また、祭祀遺跡だけ見るのではなく、周辺の状況、集落との位置関係、動態、土地利用との関わりを見ていく必要があると指摘した。
笹生衛氏

 出土文字資料・関連文献史料からの考察(早川氏)
 出土文字資料、特に売田券木簡の解釈を行った。売田券木簡に記された「宮税」という文言を「神田の税」として、神田が地域社会に還元されることを前提に、売田券という形で田の囲い込みを図ったものであるとの見解を提示した。このような動きは8世紀後半から9世紀代の寺院勢力の拡張がある一方で、神社も地域有力層の支持の下に、経済基盤を確保する動きがあったのではないかと指摘した。
早川万年氏

5-2 研究会で得られた成果と課題

 今回のシンポジウムには、研究者・学生・一般を併せ、約60名の参加があった。各者発表後の総合討議は、岡田氏の司会により、3時間という長時間に渡って非常に多くの論点が明らかになった。議論は多岐に及んだため、主要な論点のみを要約し掲載する。
 なお、文中に登場する、「I区」とは、石組遺構を伴う井戸などが確認された地区、「IV区」とは、9本柱の建造物遺構や売田券木簡が出土した地区である。

青木遺跡概略図

・青木遺跡において想定しうる祭祀儀礼について
 松尾氏は、出土した墨書土器の数はI区が圧倒的に多く、そこにみられる特徴から、I区においては、集団の帰属、紐帯を確認しあう饗食儀礼を想定しうる出土状況である、と報告し、I区の礎石建物及びIV区の神社推定遺構を含めた3棟の9本柱建物は同時に廃絶した可能性が高いことを指摘した。また墨書土器の多くは破砕されており、饗食儀礼に関わる意図的な破砕の可能性もあるが、この点については更に考察を加える必要がある、とした。
 仏教との関連について錦田氏は、8世紀後半から9世紀代における島根県内の村落内寺院遺構は数が少なく、それらと比較しても青木遺跡は遙かに仏教色が少ないことを指摘した。
 小倉氏は、IV区の神社推定遺構の建て替えがないのをどう考えるか、それきりで神社が終わったのか、または移転したものなのかどうかという疑問点を提示した。この点に関して杉山氏は、山・川から発生した神社とみるよりも、律令制崩壊期の新しい集落に関して発生した神社だとみるのであれば、他所へ移転したとも考えられると指摘した。
 牟禮氏は、IV区は臨時の神祭りの場、I区は祭祀に伴う饗宴の場として想定できる可能性を提示した。

・青木遺跡と周辺集落との関わりについて
 早川氏は、出土した墨書土器は青木遺跡で書かれた可能性だけではなく、一次的な消費地から、作業やセレモニーの為に各地から青木遺跡へ持ち込まれたという可能性も考えてみる必要があるとした。その上で「美社」と書かれた墨書土器は美談社から青木遺跡へ持ち込まれた、という考え方も出来るのではないか、と述べた。
 事業推進担当者・本学教授の鈴木靖民氏は、出土木簡の記述法は各地の付け札の例とは異なることから、地域の慣行による記述ではないかと指摘した。

・中央や他地域との関わりや共通点に関する議論
 まず藤森氏が伊勢神宮の例を挙げ、社殿が確実に使用されているのは神嘗祭だけであること、社殿は祭祀の場所というよりも、幣帛を納める場所として使われていることの2点を指摘した。
 次に川原氏は、律令制下に入って創立される社殿は国家によって造らせるという面が強い点、在地社会の社と官社としての神社には差があるのではないかという点を指摘した上で、遺構としての神社と在地社会の祭祀は結びついていない可能性があるのではないかと示唆し、遺構の問題と在地社会の問題は分けて考える必要があるのではないかと指摘した。
 鈴木氏は、律令制の地方制度の枠組みの中の議論だけではなく、武蔵国等の考古学的資料からも窺えるような、郡郷里制をこえた祭祀という点でも考える必要があると指摘した。文献史料と関連させると、儀制令春時祭田条、『常陸国風土記』行方郡条の饗食儀礼のような解釈も可能であると指摘した。
 文献史学の立場から小倉氏は、8世紀後半から9世紀代における変化について、神戸については、天平の正税帳(『正倉院文書』)の時期と『新抄格勅符抄』10にみえる大同元(806)年の牒を比較した場合、変動があると指摘した。
 考古学の立場から笹生氏は、I区のような井戸に関わる祭祀の類例は、東国においてもみることが出来ることを指摘した上で、東国では若干時代が青木遺跡よりも先行することを付け加えた。
 牟禮氏は、在地を主体とするか国家を主体とするかについては、現時点では様々な想定をしておく必要があるとして、周辺の開発状況も考慮すべきと指摘した。
 このことにつき司会より、神社推定遺構の方位性が出雲大社の方向である点や、神社推定遺構が出雲大社のミニチュア版であるという点から、こうしたものが出雲地域に展開していくということは、出雲大社あるいは出雲国造との関係が意識されているのではないかという指摘がなされた。その上で、墨書土器にみられる「祝」から、ここがある程度規模のある神社であり、祝が存在したとするのであれば、出雲国造神賀詞奏上儀礼との関係は大きく、ここを特殊な神社として位置付けることは可能ではないかとの総括があった。

・売田券を通してみた地域社会と宗教とのあり方について
 早川氏の発題に続く形で、売田券の「佐位宮」という文言が、何を指すかを含め、全体的な解釈をどうするかという点について検討した。
 小倉氏は、売田券木簡の解釈の可能性の1つとして、祭に関わる物品供出の際にそれが間にあわず、1段分の収穫で代用することを申し出たものではないか、とした。そうした場合、この売田券の「売」は永代売買ではなく、その年に限り、という意味に解釈をすることも出来るのではないかと指摘した。
 次に、神社が「宮」と表記されるのはいつごろ定着するか、というフロアからの質問に対して早川氏は、明解な回答は出来ないとした上で、長野県屋代遺跡群(6区)114号木簡を例に挙げ、8世紀前半に遡って「宮」という表記で神社を指し、何らかの建物を造るという行為がなされている可能性に言及した。
 しかしながら8世紀前半において、神社が建物として広く一般的に何処にでも存在していたかどうかという点については慎重に考えなくてはならないことを補足し、さらに「宮」1字のみの場合は、神社と限定できないことも考慮すべきである、とした。
 最後に牟禮氏は、「佐位宮」は、神社推定遺構は『延喜式』や『出雲国風土記』記載の社とは違う信仰形態として発生したものである、と指摘し、「佐位」は井戸を指しているのではないか、との理解を示した。
討議の様子

 また、この他にも

 ・出土した男子立像の位置付け
 ・『出雲国風土記』との関連性
 ・8世紀後半から9世紀代における変化の原因

 以上のような点についても問題提起があった。
 今回のシンポジウムにおいては、戦後の神社史研究の多様な視点が反映され、多角的に青木遺跡を捉えることが出来た。青木遺跡が、8世紀後半から9世紀代の祭祀・神社について、諸問題を多分に含んだものであるという点は共通認識となったようである。
 「こうした問題を解決すべきである」と締めくくるのは簡単であるが、これを事業に反映させるための方策を立てること自体はそう簡単ではない。この研究集会は、古代史学・考古学・神道学の研究それぞれの立場から描写されてきた神社・祭祀領域像が、1つの場で提示される結果となった。その意味は重いものとして受け止める必要があろう。
 ただし、それらの研究の基礎におかれるのは史資料の解釈である。その点を踏まえると、研究の現状が、その史資料自体に示されている事実に基づいているものなのか、あるいはどこまで論理的に解釈が施されているものなのか、「神社資料データベース」の基礎が完成した現在、さらにそれを充実させ、よりよい検討の材料とすべきではないかと考える。
 そうすることが、本事業で求められている、効果的な研究発信の推進につながるように受け止められた。
青木遺跡研究集会会場の様子

文責(1以外):加瀬 直弥(21世紀研究教育計画嘱託研究員)・横山 直正(大学院文学研究科博士課程前期)


 
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