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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> b. 研究会 >> グループ1「基層文化としての神道・日本文化の研究」
縄文文化とその周辺の祭祀・儀礼−本学若手研究者による研究成果発表− 
公開日: 2004/12/27
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開催日:2004年11月27日(土)午前11時〜午後3時
会場:國學院大學渋谷校舎120周年記念1号館1104教室


 「基層文化としての神道・日本文化の研究グループ」では、研究の柱の一つとして縄文時代の日本列島とロシア沿海地方を中心とする東アジア近隣地域の先史文化を比較研究し、日本の基層文化である縄文文化の成立と展開過程について探ることを課題としている。今回開催した研究集会では、本学COEの他グループの研究課題に密接する領域であり縄文文化の一部分を構成する文化要素でもある祭祀や儀礼に関する問題について、周辺地域や後続する弥生文化との関連性も視野に入れながらとりあげた。また、この研究集会では、本学所属若手研究者の研究成果公表の機会とすることもあわせて企図した。当日の各研究発表の要旨は以下の通りである。


先史時代のロシア極東における人獣表現  伊藤慎二(本学COE研究員)
 日本の縄文文化に隣接するロシア極東の先史時代における人や動物をかたどった表現・意匠(人獣表現)例を集成・検討した。アムール川下流域と沿海地方に大別したうえで、旧石器時代から鉄器時代前期までの各時代の出土遺物と岩画遺跡を含む暫定的な集計の結果、アムール川下流域に17遺跡241点、沿海地方では19遺跡75点を確認できた。これらの地域と、隣接する朝鮮咸鏡北道や中国黒龍江省三江平原などの資料を比較検討した結果、1.新石器時代では各地の地域色が目立つが、沿海地方では人獣表現が低調であること、2.青銅器時代・鉄器時代では、ブタをかたどった土製品・石製品が盛んに作られること、3.沿海地方と朝鮮咸鏡北道周辺における青銅器時代の土偶は、縄文文化の土偶と同様に意図的な毀損が行われていた可能性が高いこと、4.アムール川下流域からシベリア方面で、石棒類の分布がやや目立つ傾向があること、などを指摘した。

有孔鍔付土器の研究  阿部昭典(本学21COE奨励研究員)
 縄文時代中期における有孔鍔付土器の地域性と時期的変化を概観し、特にこの種の土器の終焉について、東北地方の事例を中心に検討した。東北地方は、大木8b式期に地域性の強い有孔鍔付土器があり、その後消滅する。一方、中期末葉には特徴的な壺形土器が出現する。これらは有孔鍔付土器の系譜上にあると考えられ、関東地方を中心に分布する瓢箪形注口土器との影響関係が想定される。また後期の注口土器や壺形土器とも系譜的につながる可能性があることも指摘した。

縄文時代中後期の墓制−千葉県を中心に−  加藤元康(本学大学院博士課程後期)
 下総台地を中心とした千葉県内の縄文時代中期後葉から後期にかけての墓制と、埋葬人骨にみられる外耳道骨腫から示唆される潜水漁労の問題について検討した。はじめに、下総台地の墓制を概観し、その時期的変化について分析した。さらに、下太田貝塚の墓制と埋葬人骨を比較検討し、それらの中に外耳道骨腫がみられることから、潜水漁労と関係する可能性を指摘した。下太田貝塚ではこのような人骨が9例みられ、いずれも中期後葉に属する。下総台地では、高根木戸遺跡、草刈遺跡B区、草刈貝塚、貝の花貝塚、宮本台遺跡などでも類例が知られる。下総台地の中期後葉から後期にかけては、遺跡から出土する貝種組成の変化や後期における土器片錘の出土数の減少もみられることから、この時期に墓制と生業がともに変化した可能性があることを指摘した。

分銅形土製品研究  武田芳雅(本学大学院博士課程前期)
本学COEプログラムの一環として昨年実施した岡山県内出土の当該土製品調査成果を基に、さらにその形状および文様構成の特徴を再検討し、中・東部瀬戸内地域における分銅形土製品の地域的展開状況を明らかにした。今後さらに検討を要するものの、複数の小地域圏とそれら相互の結びつきの存在を指摘した。特に、いわゆる「吉備型」の中心地域である岡山県高梁川・足守川・旭川下流域は、同時に初現地域の一つでもあり、中期中葉の間に周辺地域へ拡大、中期後葉から後期にかけて小地域ごとに多様化するというおおまかな方向性がみてとれた。また、山陰・山陽地方の関係に注目すると、M字状の櫛描文と、縁辺に沿う列点・沈線により文様が構成された資料の分布から、旭川流域より津山盆地を経由して千代川流域へと至る瀬戸内と日本海側を結ぶルートが存在していたと考えられる。

(文責:伊藤慎二・阿部昭典・加藤元康・武田芳雅)
 
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