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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> c. 国際会議・シンポジウム >> グループ1「基層文化としての神道・日本文化の研究」
シンポジウム 「東アジアにおける鏡祭祀の源流とその展開」 
公開日: 2006/3/7
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1.開催目的
 弥生時代に初めて多鈕鏡を手にしてから、今日の神社神道に至るまで、日本列島人の信仰と鏡とは密接な関係を維持してきた。しかしながら、そもそも鏡自体が外来の文物であったことを忘れてはならない。我々の先祖は、どのように鏡を受け入れ、日本列島的信仰の裡に取り込んでいったのか。本シンポジウムは、弥生時代から古墳時代までの鏡を中心に検討を加え、それらが原史東アジア地域における鏡祭祀の中で占めた位相を明らかにすることを企図したものである。

2.開催日時
  平成17(2005)年7月23日(土)

3.開催場所
  國學院大學常磐松2号館大会議室

4.研究発表者・司会等(敬称略)
  鄭同修(山東省文物考古研究所・日本学術振興会外国人招聘研究者)
   通訳:川村佳男(大学院文学研究科日本史学専攻)
  村松洋介(大学院文学研究科日本史学専攻)
  謀長雄(元九州歴史資料館)
  辻田淳一郎(九州大学人文科学研究院)
  岩本崇(大手前大学史学研究所)
  上野祥史(国立歴史民俗博物館)
  杉山林継(事業推進担当者)
  吉田恵二(事業推進担当者)

5.基調講演・シンポジウムの詳細

5−1 基調講演

鄭同修氏 「考古学的発見と古代斉国の手工業」
 山東省臨淄は、周代から斉国・斉郡の中枢を占め、漢代には鉄官・工官・三服官が設置された。実際、斉国故城跡からは製鉄・鋳銅など、手工業関連の遺構や遺物も出土している。最近の調査では、前漢前期に属する鏡の陶笵が多数発見されており、斉国故城が同時期における銅鏡生産の一つの中心であった。陶笵の型式と、故城内や周辺で発掘された墓葬出土鏡の型式は互いに一致するものも多く、現地生産された鏡が副葬された可能性が高い。

5−2 研究発表概要

村松洋介氏 「多鈕鏡調査の成果」
 韓国錦江流域と日本列島の多鈕細文鏡は製作技法が共通しており、韓半島で一元的に生産された鏡が列島に流入した可能性が高い。しかし、韓半島では鈕孔が明確に摩滅した例が多く、懸垂して使用したと推測されるが、日本列島の例は必ずしも懸垂したと判断できる資料ばかりではない。更に、韓半島においては多鈕鏡の殆どが副葬される一方、列島では埋納される事例が少なくない。このような差異は、彼我の多鈕鏡が果たしていた性格・役割の相違を反映したものと考えられる。

謀長雄氏 「弥生時代における銅鏡祭祀」
 青銅武器と銅鏡の副葬は、弥生時代中期初頭の北部九州に始まる。多鈕細文鏡の内、摩滅の無い小型鏡は首長墓に副葬され、大型・中型鏡は地域共同体が共有した。中期中頃には、「イト国」王と「ナ国」王に前漢王朝から古式前漢鏡が直接下賜されたらしい。この時期に、鏡は武器・玉類と共に首長権継承儀礼の必需品として定着し、特に大型鏡は卓越した地位を有していた。破砕鏡の風習は後期初頭に北部九州で普及し、古墳時代早期になって東に波及していった。

辻田淳一郎氏 「破鏡と完形鏡」
 弥生時代後期から終末期の中国鏡は過半数が破鏡であるのに対し、古墳時代前期には完形鏡の副葬が一般化し、破鏡は完形鏡に準ずる二次的な存在として扱われることとなった。また、同時に弥生小型仿製鏡の生産が終了するが、瀬戸内以東の弥生小型仿製鏡の一部は、小型倭製鏡、或いは「儀鏡」の生産に受け継がれた可能性がある。このように、「弥生的」な鏡の使用形態は、古墳時代の新たな完形鏡分配システムの中でも重層的に残存したのであった。

岩本崇氏 「三角縁神獣鏡と古墳祭祀」
 鏡の副葬配置類型が共通する背景には、埋葬儀礼そのものの共通性が想定されよう。畿内地域の事例と概ね類型を同じくしながらも、遠隔地の古墳では、鏡の配置場所や鏡面・鏡背面の向きなど、細かな相違が認められる場合がある。この事実は、畿内政権との結びつきの強弱を示すものであろう。新たな副葬配置類型の出現は、埋葬施設や埋葬儀礼の簡略化に対応したものと考えられる。なお、三角縁神獣鏡の威信財としての価値は、古墳時代中期の帯金式甲冑の登場と軌を一にして低下の傾向を辿った。

上野祥史氏 「東アジアにおける中国鏡の意義について」
 前漢末の神仙讖緯思想の活発化と共に、鏡は帝王権力の象徴とされていく。『抱朴子』では、鳥獣邪魅などの正体を照破したり、神を見たりする神仙術の霊器とされた。漢代から南北朝期にかけて、鏡は被葬者の周辺に置かれることが一般的で、玉璧や剣と同じく棺内に副葬されて霊器的な扱いを受けていたものもある。もっとも、当時の鏡は何らかの思想・信仰を背景としつつも、積極的な祭祀行為を伴って使用されたものではないようである。

杉山林継氏 「破壊する儀礼」
 完形の器物を破壊して祭りに使用する例は、縄文時代以来数多く見られる。完形の鏡や管玉、或いは勾玉・ガラス玉を破壊して副葬する行為は、弥生時代中期から古墳時代前期の事例が多い。韓半島でも、前漢鏡を径2cm〜3cm大に加工した例や、若干の破鏡がある。中国大陸にも、1枚の鏡を分割して複数の被葬者に副葬した例があった。しかし、事例の数量的側面から見れば、破壊した器物を祭りに使用する風習は、日本列島に特徴的な行為と言い得るかもしれない。

6.成果と課題
 今回のシンポジウムでは、原史日本列島における鏡祭祀について、中国大陸や韓半島の実態と比較検討する素材が提供された。中国大陸においては、鏡を破砕した事例は知られているものの(鄭氏・吉田氏)、鏡を用いた積極的な祭祀行為は見出し難い(上野氏)。韓半島でも、破壊、或いは加工された鏡の報告は数少ないようである(杉山氏)。とは言え、韓半島の多鈕鏡が墳墓への副葬を基本とする一方、日本列島では埋納された多鈕鏡も存在する。このような現象は、彼我の多鈕鏡に対する理解の相違が、日本列島に流入した当初から存在していた事実を反映したものであろう(村松氏)。
 既に指摘されているように、日本列島における鏡祭祀は、弥生時代中期に始まって以来、次第に鏡の複数性・大型性を重視するようになる(謀鳥瓠法このような傾向は、弥生時代から近世に至るまで継続された要素であると言って差し支えあるまい。一方、破壊された鏡の使用は、弥生時代後期から古墳時代前期に集中する。但し、このような器物を「破壊する儀礼」の中にも複数の目的があり、その思想的背景を一元的に解釈することはできない(杉山氏)。むしろ、古墳時代前期以降の完形鏡と破鏡の関係のように、完形のものと破壊されたものとの間に階層的な差異が存在する点で(辻田氏)、鏡の特殊性を指摘することができよう。
 また、武器・玉類と共に政治的にも重要な器物である鏡を、首長権継承儀礼に際しての必需品と看做し、弥生時代の北部九州に出現した鏡祭祀・儀礼が古墳時代のそれに受け継がれたとする立場もある(謀鳥瓠法いずれにせよ、古墳時代初頭における完形鏡分配システム成立の背景に、地域間関係の再編成によるヤマト政権の誕生があった事実は疑いあるまい(辻田氏)。そして、三角縁神獣鏡をはじめとする鏡が、少なくとも古墳時代前期いっぱいは威信財としての役割を果たしたのである(岩本氏)。
 このように、日本列島においては、鏡が本来の使用目的を逸脱し、その呪術的側面や威信財としての性格を肥大化させていった。鏡の役割や使用方法の複雑化は、鏡が列島に流入する以前から行なわれてきた何らかの儀礼的行為に対する代替ではなく、新たな使用目的を創出したことによるものと思われる。加えて考えておかねばならないのは、日本列島にまつわる鏡の内、多鈕鏡は遼寧、韓半島、沿海州からも出土しており、漢鏡は東南アジアまで広がっている事実である。また、古代の鏡や和鏡との継続と断絶についても検討する必要がある。鏡研究は、極めて裾野の広い分野であるが、だからこそより広範な国際的・学際的検討の機会が望まれる。
文責:杉山林継(事業推進担当者)・山添奈苗(COE研究員)

 
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