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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> c. 国際会議・シンポジウム >> グループ1「基層文化としての神道・日本文化の研究」
国際シンポジウム 日本列島における祭祀の淵源を求めて−考古学から見た中国大陸・韓半島との比較研究− 
公開日: 2006/3/7
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1.開催目的
 本学21世紀COEプログラム第汽哀襦璽廚蓮東アジア諸文化との比較検討を通して、日本列島の基層文化における祭祀活動の実態を明らかにすることを目的の一つに掲げている。特に、中国大陸や韓半島は、日本列島にもたらされた稲作農耕文化・青銅器文化と密接な関係を有する地域であり、日本列島における祭祀の淵源を追求する上で、必要欠くべからざる研究フィールドである。今回のシンポジウムでは2つのセッションを設け、山東新石器時代の祭祀・墓葬と社会構造変化についての研究と、日韓青銅器祭祀の比較研究を試み、日本人研究者は勿論、共同研究機関である中国山東省文物考古研究所のほか、山東大学・韓国國立晋州博物館からも研究者を招聘して国際的な議論の深化を期した。

2.開催日時・開催場所
 平成17(2005)年11月12日(土) セッション機峪嚇貎契亟鏤代の墓葬と祭祀」
  國學院大學120周年2号館2104教室
 平成17(2005)年11月13日(日) セッション供崚譽▲献△砲ける青銅器祭祀の諸問題」
  國學院大學120周年1号館1105教室

3.発表者・司会・コメンテーター等(敬称略)
 加藤里美(事業推進協力者)
 王守功(山東省文物考古研究所)・通訳:黄川田修(大学院文学研究科日本史学専攻)
 高明奎(山東省文物考古研究所)・通訳:黄川田修(大学院文学研究科日本史学専攻)
 欒豊実(山東大学)・通訳:山田花尾里
 甲元眞之(熊本大学)
 謀長雄(元九州歴史資料館)
 李陽洙(國立晋州博物館)・通訳:古澤義久(東京大学大学院)
 武末純一(福岡大学)
 井上洋一(東京国立博物館)
 杉山林継(事業推進担当者)
 小林達雄(事業推進担当者)
 吉田恵二(事業推進担当者)

4.シンポジウムの詳細

4-1 セッション

加藤里美氏 「海岱地区における偶像の社会的位置」
 海岱地区における偶像のモチーフは、ヒトよりもブタやトリが多く見られることが特徴である。後李文化期にはウリボウの土製品が見られるが、大汶口文化期に入ると成獣のブタが表現されるようになる。大汶口文化中期以降にはブタやイヌなどの偶像で雄・雌の表現が明確化し、キバノロの牙やブタの骨なども副葬に供される。このような傾向の背景には、ブタの家畜化や稲作の開始など、偶像祭祀の基盤となる生業形態の転換と、それに伴う社会構造の変化が想定されよう。

王守功氏 「山東先史時代における墓葬の変化と階級差の形成」
 山東における先史時代の墓葬は、墓壙の規模や副葬品の種類・量から大きく3段階に区分することができよう。後李文化・北辛文化段階は埋葬習俗の形成段階であったが、大汶口文化段階には副葬専用の土器が出現し、棺槨の萌芽も認められる。中心的な集落においては階層分化が顕在化し、龍山文化段階に至ると棺槨制度が確立する一方で、副葬品を持たない小型墓も増加した。このような習俗や儀礼は、中原における夏・殷代の礼制にも大きな影響を与えた。

高明奎氏 「大汶口文化の大口尊に対する一考察」
 後李文化・北辛文化期に祖型が求められる大口尊は、大汶口文化前期から龍山文化前期まで継続して生産された。当初は日用雑器として用いられていたが、大汶口文化前期後半には大・中型墓の副葬品としての役割も持つようになった。一般に墳墓からの出土が多く、刻画符号が見られるなど、礼器としての性格を備えていた可能性が高い。その使用形態は、墓主の身分や地位と密接に関係していたものと思われるが、広範囲に絶対的な規制があったものではないようである。

欒豊実氏 「礼制の発生、発展と社会の多層化」
 海岱地区における墳墓の状況から判断すると、社会分化は北辛文化期に始まるものの、基本的に大汶口文化前期前半までは平等社会と言ってよい。大汶口文化前期後半から中期にかけては副葬品が増加し、礼制の萌芽も見られる。また、中心的な集落の出現が示すように、この段階は階層社会への過渡期と捉えることができよう。大汶口文化後期から龍山文化期には、礼制の発展、社会的格差の拡大が普遍的に展開する。階層社会の確立と初期国家の誕生は、この時期の出来事であった。

4-2 セッション

甲元眞之氏 「東北アジアの青銅器−東北アジアの単鈕素紋鏡を中心として−」
 単鈕素紋鏡の中でも、鏡面が凹面を呈する一群は東北アジア南部地域にのみ出土し、その多くは夏家店上層文化に属する。多鈕鏡は凹面を持つ事例が支配的であり、このような単鈕鏡の系譜を引くものと考えるのが妥当であろう。殷代のシャーマンであった婦好の墓からも単鈕素紋鏡は出土しており、殷のシャーマニズムが中原の北方にも影響を及ぼしたのである。その伝統を継ぐツングース系シャーマンは、鏡を装束の胸や背中に装着して神と一体化する。彼らと由来を同じくするものの、日本列島における弥生時代以降の鏡信仰では、鏡自体に意味を見出し、鏡を神と同一視するようになった点が特徴と言えよう。

謀長雄氏 「多鈕鏡と漢式鏡の祭祀」
 鏡を墳墓に副葬する風習は、多鈕細文鏡の伝来とともに韓半島からもたらされた。また、中国から前漢鏡が輸入されるようになると、鏡は首長権継承儀礼の代表的な必需品となった。但し、鏡の多量副葬や破砕などは、弥生時代中期以降に北部九州の限定された地域で生み出された儀礼に伴う行為である。北部九州における鏡の祭祀・儀礼は古墳時代に継承され、5世紀に古墳の主要な副葬品目から外れてからも、今日に至るまで祭祀具としての命脈を保っている。

李陽洙氏 「韓半島出土の多鈕細文鏡と日本の青銅器儀礼」
 韓半島から出土する細文鏡のうち、2区細文鏡は主に武器・鉄器と共伴し、墳墓群から出土する。3区細文鏡は主に銅鈴類と共伴し、単独墓から出土する傾向が強い。また、次第に小型化する前者は政治的首長の、大型化する後者は祭司長の存在を窺わせる。日本列島では、2区細文鏡は北部九州の墳墓に副葬され、3区細文鏡は北部九州と近畿において埋納に供される。半島の青銅器は祭司長の死と共に副葬されるが、列島では神人間の接点を青銅器そのものが担った可能性がある。

武末純一氏 「銅矛のマツリの諸問題」
 韓半島では遼寧式銅剣の時期から細形銅剣の末期まで、青銅器を埋納する事例が認められる。この性格は、列島の細形青銅器に継承された。北部九州における青銅器の埋納は弥生時代中期前半に始まるが、村のマツリに使用される銅矛は1〜2本程度である。一方、半島における倭系武器形祭器は、殆どが副葬品である。銅矛形祭器の取り扱いについて俯瞰すると、九州本土では埋納、対馬では埋納・副葬、朝鮮南部では副葬という地域差が看取される。

井上洋一氏 「銅鐸祭祀の諸問題」
 銅鐸は農耕祭祀の祭器である、という言説を無批判に受け入れてはならない。生活基盤を同じくする古墳時代に、銅鐸は引き継がれなかった。銅鐸絵画には、狩猟や漁撈関係のモチーフも見受けられる。また、銅鐸は「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化すると言われるが、仔細に観察すれば、終始「見て聞く銅鐸」であった可能性が高い。銅鐸や銅矛などの青銅祭器は、それぞれを選択した地域を異にするものの、埋納されることは共通している点が重要である。

杉山林継氏 「青銅器祭祀と日本の神話伝承」
 日本列島最初の鏡・剣・玉・矛・戈の副葬品セットは、福岡県吉武高木遺跡3号木棺墓に出現した。このような鏡・剣などにまつわる伝承は、国生み神話をはじめとする日本神話の所々に現れるものの、青銅器について明瞭に語ったものはない。鐸に関しては、わずかに『古語拾遺』に見える天磐戸神話の例を唯一とするが、それも「鉄鐸」と表現されている。山陰地方における青銅器の大量埋納などは、出雲神話の成立より古い祭祀形態を示すものであろう。

5.成果と今後の課題
 セッション機峪嚇貎契亟鏤代の墓葬と祭祀」では、日本列島に伝播した稲作農耕文化の故地と想定されている山東の新石器時代社会と祭祀について議論した。改めて確認されたのは、大汶口文化期における階層分化の顕在化であり、礼制の発達である(王氏・欒氏)。同時期には、墓葬・集落の階層分化が進展したばかりでなく、副葬専用の土器や大口尊のような礼器も盛行した(高氏)。そして、ブタなどの偶像や獣骨を副葬する風習も見られるようになる(加藤氏)。このような変革の背景には、生業形態・集落構造・墓葬・祭祀などの全般的な連関を想定しなければならない。日本列島の偶像祭祀は縄文時代に盛行し、全般的には衰微しつつも弥生時代まで認められるが、階層社会の展開と初期国家の誕生に至る過程における位置付けはなお明瞭でなかった。今回提示された中国における諸現象は、日本列島における偶像祭祀との関係を含め、今後の研究に重要な示唆を与えるものである。
 セッション供崚譽▲献△砲ける青銅器祭祀の諸問題」では、日韓両地域を中心とした青銅器祭祀の起源と展開について検討が及んだ。日本列島人が初めて手にした鏡である多鈕鏡は、殷代のシャーマニズムに由来する夏家店上層文化期の単鈕素紋鏡を祖型とするが、列島では独自の鏡信仰が生み出されたことに注意しておく必要がある(甲元氏)。実際、韓半島西南部においては、祭司長と政治的首長が多鈕鏡を区画数によって使い分けて副葬しており、日本列島では3区の多鈕鏡は埋納に供された(李氏)。勿論、韓半島においても青銅器を埋納する事例は終始認められるが、倭系武器形青銅器まで視野を広げてみれば、その扱いには九州の埋納、対馬の埋納・副葬、韓半島南部の副葬という地域差が看取される(武末氏)。更に、中国から前漢鏡が輸入されるようになると、日本列島における鏡は首長権継承儀礼の代表的な必需品となり、古墳時代前期まで威信財として位置付けられた(謀鳥瓠法このような青銅器祭祀について、日本の神話・伝承の内に明言された例は認め難いが、むしろ考古学的な手法によってこそ神話以前のマツリの姿を明らかにすることができる(杉山氏)。このように、青銅器祭祀の内実は多様な様相を示しているとは言うものの、日本列島では青銅祭器を多量に埋納する例が少なくない。逆に、同様な埋納行為を伴いつつも、銅鐸や銅矛などの分布圏が出現した経緯を追求する必要がある。また、銅鐸を農耕祭祀の祭器とするような既往の言説についても、先入観抜きの再検討が迫られていると言えよう(井上氏)。
 考古学は、個人的な心の領域を越えた集団の心性を捉える学問でもある。祭祀という行為は、広い意味での贈与関係であり、モノの動きや人々の動きを詳細に検討することで、神観念について接近していくこともできよう(小林氏)。先史・原史東アジアにおける信仰形態について振り返ってみると、中国大陸では青銅製礼器の出現と共に、偶像祭祀は消えていく。ヴェトナムでも新石器時代を経て青銅器が用いられるようになり、銅鼓に代表される特異な青銅器が盛行した。このように、偶像祭祀から青銅器祭祀へ向かう方向性は、日本列島の周辺地域に広く認められる。但し、偶像や青銅器を持たない地域でも、何らかの祭祀活動が行なわれていたであろうことは疑いない。日本列島における祭祀の淵源を求める上では、そのような点も念頭に入れた上で、トータルな研究を心掛ける必要があろう(吉田氏)。『春秋左氏伝』にもあるように、国家の大事は祭祀と兵事にあると言われる。文字化されることのなかった列島的礼制の成立は、考古学による「日本」国家の形成や祭祀の実態に迫る基幹的な研究分野とすることができるのである(欒氏)。
文責:杉山林継(事業推進担当者)・吉田恵二(事業推進担当者)・山添奈苗(COE研究員)

 
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