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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
愛媛県東予・中予地域(旧伊予国)調査 
公開日: 2003/6/25
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愛媛県東予・中予地域(旧伊予国)調査報告

1 調査目的

 神道・日本文化と関わりが深い「場」として神社を捉え、その地域的特質を、文献史学と、立地・環境面から探るため、その一例として愛媛県の神社を対象にした。
具体的には、本プログラムで作成中の「神社資料データベース」に採録する画像資料、さらには神社の立地・環境を示すデータを制作・収集することを目標とする。今後、こうした局地的な神社調査を複数回行い、外部からの知識の提供を受けながら、神社とそこから見出せる神道・日本文化についての研究を行う予定であるが、本調査はその最初として位置付けられる。

2 調査日
 平成15年2月15日(土)〜2月18日(火)

3 調査先
 村山神社(宇摩郡土居町津根)
 伊曽乃神社(西条市中野)
 多伎神社(越智郡朝倉村古谷)
 伊加奈志神社(今治市五十嵐)
 石清水八幡神社(越智郡玉川町八幡)
 野間神社(今治市神宮)
 伊予神社(伊予市上野)
 伊予神社(伊予郡松前町神崎)
 伊予豆比古命神社(松山市居相町)
 阿沼美神社(松山市味酒町)
 阿沼美神社(松山市平田町)
 高縄神社(北条市宮内)
 国津比古命神社(北条市八反地)
 大山祇神社(越智郡大三島町宮浦)


4 調査実施者
 事業推進者 岡田 莊司(神道文化学部教授)
 COE研究員 加瀬 直弥
 研究協力者 永田 忠靖(文学研究科博士課程前期)

* 調査に伴う資料提供者
 伊曽乃神社(愛媛県西条市中野甲:宮司・井上千賀司氏)
 大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町宮浦:宮司・三島喜徳氏)

5 調査の詳細
5-1 調査項目の設定
 調査に先立って、『式内社調査報告』南海道(皇學館大學出版部)・『愛媛県の地名』(日本歴史地名大系・平凡社)によって予備調査を実施した(研究協力者3名の協力による)。結果本調査においては、(1)主要な文化財の電子化と、(2)社殿ないし信仰要素と密接に関わった施設(社域内における)の確認作業に重点を置く事を決定した。

5-2 調査実施による成果
5-2-1 主要な文化財の電子化
(い)伊曽乃神社
 国指定重要文化財『与州新居系図』の完全電子化を実施した(下は部分)。『与州新居系図』は、長さ約3.6メートルの横系図。東大寺戒壇院主凝然(越智氏出身)によって、正応3(1290)年頃、伊予にて書写されたとされる(越智通敏『沙門凝然(愛媛文化双書14)』)。その成立年代の古さから『海部氏系図』・『和気系図』と並んで日本三大系図とされる。また、紙背の消息の筆跡についても、その芸術的価値が高い。昭和7(1932)年に伊曽乃神社に奉納。昭和27(1952)年3月29日重要文化財に指定。昭和8(1933)年に写真複製本が刊行されているが、有志に配布されているのみで、一般には現状を公開されていない。今回「神社資料データベース」への採録を許可された。
その他、『伝崇徳上皇御宸筆神額』・『牛王宝印版木』を電子化。

予州新居系図
(『与州新居系図』・国指定重要文化財)


(ろ)野間神社
 国指定重要文化財の宝篋印塔を電子化。この塔は全長2.8メートル。九輪・宝珠以外は鎌倉時代の作とされ、金剛界四仏を示す梵字が塔身に薬研彫されている。昭和29(1954)年3月に重要文化財に指定。

宝きょう印塔
(野間神社宝篋印塔)


(は)大山祇神社
 大山祇神社は、指定文化財だけでも相当点数を所蔵している。そこで、調査項目に則り、建築物(本殿・拝殿・上津宮・宝篋印塔)・文献史料を中心にその電子化を試みた。ただし、後者についても短時間の作業という事もあり、直接の電子化は数点(大山祇神社文書)に止め、以前本学で撮影した文献史料のフィルムを、本プログラムのために利用する事について、神社より許可を受けた。

大山祇神社
(大山祇神社拝殿)


5-2-2 社殿ないし信仰要素と密接に関わった施設の存在
 今回の調査の対象とした神社を俯瞰して伊予の神社における特性を列記すると、以下の通りとなる。

○ 後背山を有さず・且つ谷間に鎮座していない神社に関しては、社殿の向きが東面している場合が多い(村山・伊曽乃・伊予(松前町)・伊予豆比古命)。
○ 経塚ないしは経塚と見なされる塚がある場合、いずれも特別な信仰対象となっている(村山・伊予(松前町))。
○ それとは別に、境内にある石が崇拝対象となっている事がある(村山・多伎・野間・伊予(伊予市・松前町))。
○ 谷間の神社に関しては、境内ないしその直近に古墳群が存在する(多伎・野間)。

 これらの点についての詳細な解明は今後の課題とするが、現状において指摘できる点については次章で後述する。

6 総括と課題
6-1 伊予国の神社の実態から見る信仰の傾向
6-1-1 伊予国東予・中予地域における神階四位以上・名神大社の偏在
 伊予国においては、名神大社(伊予国は神階四位以上の神社はいずれも名神大社である)が東予・中予地域に偏在する。松山平野より南部、すなわち南予地域に当たる喜多・宇和両郡には、対象の神社ばかりでなく、式内社も鎮座していない。少なくとも朝廷の信仰に偏りがある事が分かり、その原因は農業上・交通上の問題にあると見られる。
 伊予国内の神祇に対する施策を詳細に見ると、さらに偏りが見られる。神階奉授の初出は、全国的にも早く天平神護2(766)年の事であるが、この時、伊曽乃神・大山積(大山祇)神・伊予神・野間神の4神が対象となっている(『続日本紀』天平神護2年4月甲辰(19日)条)。ほぼ同時期に神階ばかりでなく、地方神祇には珍しい封戸もあてられているが(『新抄格勅符抄』10・大同元年牒)。これも対象が同一である。朝廷の伊予神祇に対する政策の中心は上記4神に固定化されている。
 4神に対象が絞られた理由を探るのは、少々困難ではあるが、一例として伊曽乃神を挙げる事で、その一面を浮き彫りにしたい。
 伊曽乃神は、石鎚山系から流れる加茂川の中流と下流の境に位置する。西日本最高峰でもある石鎚山は、『文徳実録』嘉祥3年5月壬午(5日)条を見る限りは(嘉祥3年は西暦850年)、山岳信仰の拠点であり、且つ嵯峨天皇の諱との関わりから、国家的に認知された事が理解できる。逆に言えば、伊予におけるシンボルである石鎚山に対する信仰として、朝廷が注目し、その結果が石鎚山の入り口に当たる伊曽乃神社に対する崇敬につながったとも考えられる。
 こうした傾向は、水上交通の要衝としての大山積神、東予と中予との境界に位置する野間神、国名と同一名称を持つ伊予神全てに共通しよう。朝廷の神祇政策は、一定の地域特性を含みつつも、巨視的な国の性格付けと連動していた可能性もある。

6-1-2 貞観年間以降の神社信仰と神階
 これが貞観2(860)年の段階になると、大山積神が伊曽乃神よりも高位に叙され始める。同時に、多伎神も突如高位に叙され、伊予神と同位となる。この2神について考えてみる。
(い) 大山積神
 大山積神は『釈日本紀』6所引の伊予国風土記を見る限り、航海の神である事がいえよう。しかし、大山積神の後背山である鷲が頭山は、国府所在地であったと見られる今治平野から明確に視認できる。大山積神については、その景観という側面も信仰上特別視すべき点であり、特に国府所在地で見られる事は注目されよう。

鷲が頭山
(中央の山が鷲が頭山)


(ろ) 多伎神
 多伎神は周囲に6〜7世紀ごろ作られた多伎宮古墳群(県指定史跡)を擁するが、現本殿の真裏にだけ、積石墳が存在している。この点から見れば、祖神信仰との関わりが濃厚である。しかし、それが神階高位に直接的に結びつくという事ではないようである。多伎神社が鎮座する頓田川流域には、おびただしい数の古墳が所在しており、必ずしも多伎神の際だった特徴として採り上げられる性格は薄く、特定の氏族の力関係も見いだせない。しかし、頓田川下流に位置すると見られる国府所在地と、多伎神の地理的関係に注目すると、国府の東を流れる頓田川の、最も近く視認しやすい水源に当たっている点が浮き彫りとなる。神社の信仰の決め手として、水の信仰が重視されている点が理解できよう。
 (い)と併せて考えると、国司の信仰が神階高位に結びついたと考えられる。ただし逆を返せば、中央・国府の信仰であっても、その土地の自然を、そのまま信仰に活かす姿勢も同時に窺える。

6-2 今回の調査における課題
 以上、古代史料と現状の調査を組み合わせた上で、一定の方向性を提示したつもりであるが、特に現状調査そのものに対していかに評価するかという点について、課題が存在する事はいうまでもない。
 とりわけ、神社の現状を把握するような調査の場合、そうした現状がいかなる経緯で形作られたかに留意すべきであろう。神社関係者が、神社における信仰の根源「らしく見せる」ような活動を行っている事は歴史的事実であり、しかもそうした活動は、現在でも見受けられる。このような性格を持つ神社の現状を確認する事自体は、現在の宗教意識を検討するには直接的な資料となり得るが、古代からの形成過程の研究においては、史料性という点で大きな問題があり、信仰の実態としてそのまま理解する訳にはいかない。今後この点を特に意識して調査を行わないと、当然の事ではあるが、時間軸から見た神道理解が誤ったものになりかねない。
 こうした傾向は、対象神社が式内社であるかどうかの問題についてもいえる。 近世松山藩の統治下にあった神社については、19世紀前半にいわゆる式内社争いがあり、このためか、当時の神社関係者が、式内社である証拠を探求していた状況が現状からも確認できた。具体的には、式内社の比定考証を試みて神社の名称を変更し、新たな名号標を作成したケースや、遺物を発見することに意識を払うような状況である(阿沼美神社(松山市平田町)で南北朝期の扁額が発見されたが、これも天保4(1834)年のことである)。結局のところ、文献史料上、古代の神社と現在の鎮座地との関係を証明できるものは伊予国に関しては存在しないので、古代の状況を知るという意味においては、相当に慎重な態度を持って接する必要性が理解できよう(むしろこうした論争については、当時の政治的な動向に即した内容に基づくとすれば、近世における課題として重要視すべき点であろう)。

阿沼美神社
(阿沼美神社の扁額が発見された場所)

 
 神社史料そのものの残存状況についても同様である。神社に史料が所蔵されているのは、社家の努力による部分が大きいが、それだけに社家存続に不必要ないしは阻害要因となる史料を切り捨てている可能性も高い。また逆に、神社ないし地域社会に有益という接点が、新たな神社史料を形成させたケースも見られる。その典型例が、『与州新居系図』である。この系図は、伊予国ないし神社と特別深い関係を有しており、神社に所蔵されるにふさわしいものであるが、実際にはその所在が確認されて150年、伊曽乃神社に寄贈されて70年しか経っておらず、それ以前の保存経緯は明らかになっていないのである。
 こうした点を理解し、時代的な経緯を的確に追う作業は、困難ではあるが必要不可欠である。前章の成果でもその点に留意し、一定の方向性を示したつもりであるが、これが正しいかどうかは、なお精査が求められよう。
 以上の課題を克服し、神社における神道の実態を把握するためには、最終的には基本に立ち返る必要があろう。すなわち、既出の神社史料の収集とその基礎的分析を優先して行い、その過不足を補う形で神社調査を新たに確立すべき手法・視点の研究的な妥当性を探るように、今後はつとめていきたい。

文責:加瀬 直弥(COE研究員)
 
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