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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ1「基層文化としての神道・日本文化の研究」
中国山東省・遣唐使帰国航路及び延暦寺僧円仁の巡礼地の調査 
公開日: 2003/8/2
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調査報告「中国山東省・遣唐使帰国航路及び延暦寺僧円仁の巡礼地の調査」

1、調査の概要
   ・調査地     中華人民共和国 山東省  
   ・調査期日    2002年12月23日(月)〜12月30日(月)
   ・調査実施者   鈴木靖民・土肥義和・林和生・佐藤長門・山崎雅稔
   ・調査協力者   馬 一虹 (中国社会科学院 歴史研究所中外関係史 副研究員)

2、調査の目的
 本学21世紀COEプログラムにおいては、多様で複合的な神道・日本文化の諸相の起源と歴史的展開・意義を解明するために、日本の基層文化のアジア史的解明に関する調査研究をテーマのひとつに掲げている。 私たちはこの調査研究を推進するにあたり、東アジアの周辺諸地域の歴史やそれらの地域との政治的・経済的・文化的な交流の展開が、日本の基層文化の形成と変容を規定する要因として作用していたことを重視し、そこに歴史学的な手法を用いて光を当てることにより、個別具体的な異文化間交流の歴史から列島文化の展開についてアプローチすることを目的にしている。
 本調査が対象にした中国山東半島は、渤海湾を囲んで遼東半島に接し、黄海を挟んでは朝鮮半島に近く、また古代の日本僧や遣唐使が往来した経路上にあり、古代中国文化の日本列島への伝播と受容、定着に目を向けるとき、山東半島は直接・間接に日本との関わりをもち、その交流史は歴史的にきわめて重要な役割を担ったといえる。
 平安時代初期の延暦寺僧円仁は、この山東半島に滞在し、その後も帰国までに2回、この地を訪れている。そのことは、円仁が道すがら記した『入唐求法巡礼行記』に多く記録されている。円仁は、遣唐使の一員として中国に渡ったあと、聖地巡礼と求法活動の継続を願って、山東半島の東端(現在の栄成市石島鎮)に所在した赤山法花院に留まり、この辺りを拠点に集住していた新羅人の助けを借りて中国滞在の方便を得る。そして、ここから五台山、さらに長安への旅に出る。9年余りの中国滞在ののち、帰国した円仁は、多くの経典等を日本にもたらし、天台宗の発展に寄与したが、そればかりでない。円仁以後、五台山巡礼は、日本僧侶の渡唐と重ね合わせられて憧憬の対象になり、日中仏教交流の一脈となる。また、山東で新羅人の力を借りた奇縁に端を発して、円仁は帰国後に新羅明神を勧請し、次いで中国に渡った弟僧円珍が赤山明神を勧請したことはよく知られるところである。
 これら2つの蕃神は、まさしく円仁たちの異文化間交流が生み出したものであるが、それらは中国における在地の信仰を基層としながらも、そこで外国人として交易その他の生業を営んでいた新羅人たちの信仰とも密接に関わるものであった。そうした中国の外国人の神祇信仰が日本の神観念とも混淆して生まれたのが、新羅明神や赤山明神であり、やがて平安時代末期から鎌倉時代になると山門派・寺門派の対立などとも絡み合いながらそれぞれ定着して、日本文化のなかでの位置を獲得していく興味深い神でもある。

 円仁の『入唐求法巡礼行記』は、日本の遣唐使の揚州到着から帰国直前までの様子をも描く。新羅の情勢に一喜一憂する遣唐使一行の姿、高まる風波を恐れては神を祀り、仏に祈る姿、仲間の死に涙する姿など、遠く中国にわたって進んだ文化に触れ、少なからず日本に文化的影響を与えた遣唐使の異文化体験の現実を描き出す。また、円仁が赤山を出発してから登州、登州から青州などを経て五台山、そして長安に至り、排仏の難に直面して帰国するまでの道々の辛苦を記す。のちに五台山を目指した僧侶もガイドブックに『入唐求法巡礼行記』を選んで中国を歩いたように、記録された内容は詳細で、唐代の歴史・文化・政治・経済などを理解するうえでも貴重な基礎史料として注目されている。
 『入唐求法巡礼行記』は、本学大学院文学研究科の演習(東アジア史演習機∋業推進者鈴木靖民教授)で1989年以来読み進めてきた蓄積があり、2000年には関連する国際シンポジウムも開催した。今回の調査は、この間の基礎研究を踏まえて、『入唐求法巡礼行記』の記載内容について、これまで必ずしも詳細に検討されていない山東半島における遣唐使の帰国経路や、円仁の五台山巡礼の道程をたどり、そこから古代日本人の異文化間交流の有り様を具体的に明らかにし、これを足がかりとして、日本の神道・仏教を宗教・信仰にかかわる基層文化の形成と展開を考究することを目指すものである。

3、調査内容とその成果
 今回の調査では、馬一虹氏(中国社会科学院)の全面的な協力・支援のもと、山東省在住の研究者で、円仁や日本の遣唐使がたどったルート等について調査研究を重ねてきた田正祥氏、張峡両氏、初ゞ住瓠癖古仍埣亙志編纂委員会)、辛岳州氏(大辛家村志編纂担当者)、高玉山氏(乳山市志編纂担当者)、戚俊傑氏(甲午戦争記念館長)、袁暁春氏(蓬莱市文物管理所主任)の現地案内を受けることができ、円滑に当初のスケジュールを消化できた。

(1)遣唐使帰国航路の調査
 円仁を乗せた遣唐使帰国船は、揚州から海岸に沿って北上し、山東半島から東に船帆を進めて、半島の東端で風を得て海を渡り帰国する。円仁の記録はこの航路についても詳しいが、今回は主に下記の6つのポイントを踏査できた。

 ℃座識
 乳山浦
 7島
 だ峪魁赤山浦・赤山村
 デ耶島
 青山浦

℃座識
遣唐使が死亡した船乗員の亡骸を近くの島に安置、渡海のために邵村で食料補給を行った浦港である。比定地について、乳山市志は、同市三甲田+童を挙げている。但し、現在の三甲田+童は明代以降の移住によって形成された集落であるという。

乳山浦
遣唐使船が邵村浦を出て、赤山に向かう航路上にある港湾である。海水面が陸地に深く切り込み、現在でも比較的大きな規模の船が出入りする港で、周辺に塩田が広がる。港の西側に乳山を確認する。高玉山氏の話によれば、港湾の中間地点にある小島を、遣唐使が船乗員の亡骸を安置したと島と推察する説もある。円仁は、浦内に新羅人が往来していることを記すが、この地に朝鮮半島からの移民が到来するのは明〜清代以降のことと言われる(高氏の話)。付近には倭寇来襲に備えて造られた防御施設の遺構も残っているという。

7島
比定地については、今回協力者となって頂いた諸氏(張峡氏、田正祥氏、辛岳州氏、初ゞ住瓠砲慮解もそれぞれで、円仁の記録のみからは詳細なポイントはつかめず、海流や地形の変化なども考慮する必要がある。田氏の主張する栄成市五龍咀付近、辛氏の主張する冷家庄村付近を踏査することができたが、特定し難い。遣唐使船は、風雨や波のために、乳山浦から桑島辺りで約1月余りを過ごしている。この間、順風を祈って転経念仏し、唐の天神地祇を祀るなどしたが、強風のために舳先の住吉神などを祀る神殿蓋葺が剥落、死者も出るなど、混乱の最中にあった。そのうえ、落雷で船は破損する。そこで船上の人々は、破損した部位を集めて、幣帛を捧げて、帰国のおりには、神祠を建てて永く祭祀すると誓約する。そして桑島でこの災いを祓い、船上に当処の神を祀った。遣唐使の船上祭祀が具体的に窺われる箇所であるが、それが在来の信仰や海上祭祀とどのように関わるのか、船に乗って日本に持ち込まれた神はその後どうしたか、という問題への追究は今後の課題として残った。

だ峪魁赤山浦・赤山村(栄成市石島鎮)
唐代後半に新羅人が多く生活した場所で、9世紀前半に海上貿易を通じて勢力を拡大した張宝高の建立になる赤山法花院がある。今回私たちがレクチャーを受けた田正祥氏により、寺址が発見され、現在はその地に寺院が再建されている。寺院は円仁の記載をもとに、復元されているため、今後の検証が必要である。赤山は斥山ともいい、赤褐色の岩山からなる山には祠があり神(虎神)を祀っているというが、時間の都合から確認できなかった。

デ耶島 
赤山村(石島鎮)の東南に位置する平坦な島で、赤山浦の東岸に接する。呉干将が剣を作った地であると円仁は伝え聞いている。莫耶はもと干将の妻の名前とする伝承もある。航海上のランドマークか。

青山浦(栄成市成山付近)
日本の遣唐使が渡海直前まで寄港して風待ちしていた港と考えられる。新羅船や渤海船も往来していることを円仁は伝え聞いている。山東半島の東端で、黄海に突き出たところ、つまり栄成市の東端と考えられ、浦(港)を何カ所か踏査したが詳細な比定地は不明。始皇帝が遠く蓬莱を望んだという山や、日本の各地や韓国済州島などに伝わる徐福伝説とも関わる地である。

(2)円仁の五台山巡礼の行程調査 
 円仁は、赤山院(栄成市石島鎮)から五台山までの行程を大略次のように記録している。

  赤山村−文登県−登州−蓬莱−青州−淄州−鎮州−五台山

 上記のうち、今回は山東に属する蓬莱までの行程を踏査できた。

\峪魁殃古亳
郷土史家であり円仁の巡礼地・帰国航路についても詳しい張峡氏の案内で、石島港(赤山浦)・院前村・望海曲家(金岑-靖海湾)、高村鎮、張家産鎮を経て文登県に至る道筋を追跡調査した(12月28日午前)。

∧古亳−登州・蓬莱
初ゞ住瓩琉篤發砲茲蝓∧古仂誑、臥龍堡、望海村王家、招賢館を踏査する(12月28日午後)。袁暁春氏(蓬莱市文物管理所)の案内で、蓬莱海関址、蓬莱閣、円仁が訪れた登州都督府、蓬莱県治址、及び円仁の記録から存在を窺うことのできる渤海館・新羅館址推定地、開元寺址を踏査したあと、安香村にあった安香寺址、故現館のあった古現鎮、柳林村橋、芝陽館のあった芝陽村(烟台市福山区)を調査した(12月26日)。なお、登州博物館を訪問した際に、安香寺址出土の「開皇五年」(585年)銘の経塔(推定)を実見する機会を得た。これについては土肥義和教授が調査を実施し、レポートの公表を準備している。

 今回は、『入唐求法巡礼行記』の内容について、行程の距離や方角・地名などを照合させながら調査活動を行うとともに、田正祥・張峡両氏には半日間に及ぶインタビューに協力して頂き、また初ゞ住瓩砲睫鵤瓜間のインタビューを実施して、赤山院のことや、石島鎮(赤山村)から文登、文登から登州に向かう古代の道についての現時での知見、遣唐使の帰国航路(とくに桑島の位置について)などを詳しく研究することができた。

4、拠点形成のための活動

(1)北京大学 12月23日、同大学歴史系東北亜細亜研究所、宋成有所長・沈仁安教授を訪問し、同研究所所属の大学院生たちとも会した。本学21世紀COEプログラムの趣旨を説明し、研究の協力を要請して、快諾を得た。
(2)山東大学 12月24日、同大学歴史文化学院に、王育済院長、陳尚月+生、劉玉峰教授を訪問し、同大学所属の大学院生3名も会して、研究協力、意見交換のためフォーラム開催した。近年の中国・韓国・日本での東アジア研究の現況から、国際的な交流のなかで研究視角をもつことの必要が確認された。また本学21世紀COEプログラムへの研究協力を要請し、快諾を得た。
(3)その他、山東省博物館(済南市)に魯文生館長、張従軍副館長を訪問(12/24)、烟台市博物館に王錫平館長、于暁莉氏を訪問(12/26)し、甲午戦争記念館(威海市)戚俊傑館長、郭陽副館長を訪問して、本学21世紀COEプログラムへの研究協力を要請した。

5、今後の課題
 東アジア史の視点、あるいは異文化間交流の視座から日本文化を捉えて論じる視角は、古くから存在したものであり、取り立てて新しいものではない。いま求められているのは、日本の基層文化やその後展開した文化の変容を巨視的に論じることではなく、むしろその逆で、交流の実態を歴史の事実に即して明らかにしていくことである。細部の歴史に対する考証を積み上げて、日本文化のなかの異文化接触の位相を明らかにし、文化変容のダイナミズムを解明することにある。その意味で、中国、山東半島の道教・仏教などの宗教文化、その他の文化的特性がどのようであり、それが朝鮮半島や日本に何がどのように伝わったのか、日本に即して言えば、外来文化の受容をとりまく歴史と文化がどのようであったかというより包括的な課題は、今後の考究すべき重要な課題である。
 しかし、今回、『入唐求法巡礼行記』のテキスト考証を、遣唐使や円仁が往来した現地で直接行なえたこと、また長らく地元で研究を続けて来られた諸氏の知見を伺うことができたことは、今後の調査、及び日本での研究活動に対しても、貴重な意味を持つものと評価できる。これを第一段階として調査の継続を期したい。

※なお、調査の成果を踏まえて、2003年3月に東アジア異文化間交流史研究会・第1回国際研究会議を開催した。その概要については別記したのでそちらも参照して頂きたい。

◇調査風景 〜赤山法華院と赤山(栄成市石島鎮)〜
異文化間交流中国山東省調査風景
 
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