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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ1「基層文化としての神道・日本文化の研究」
韓国全羅道地方の前方後円墳調査 
公開日: 2003/9/17
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韓国全羅道地方の前方後円墳調査報告
                                 

1.期間  
   第1回調査 2003年2月15日〜2月19日 
   第2回調査 2003年5月1日〜5月6日 

2.調査者 
   鈴木靖民・佐藤長門・山崎雅稔・高慶秀・李侑珍・新井隆一
                      (以上、國學院大学)
   近藤浩一(忠南大学校)・井上直樹(ソウル大学校)
   高田寛太(慶北大学校)

3.調査協力者 朴天秀(慶北大学校)・李鎔賢(国立中央博物館)



4.調査行程

◇第1回調査◇

【2月15日】
羅州伏岩里古墳群−会津土城−潘南面古墳群(徳山里古墳群・新村里古墳群・大安里古墳群)−松堤里五層石塔−新燕里古墳群−沃野里古墳群−霊岩チャラボン古墳 
【2月16日】
海南長鼓峰古墳−海南龍日里古墳−外島箱式石棺墓−新月里古墳−康津青磁資料博物館
【2月17日】
将島清海鎮遺跡・法華寺址−海南月松里造山古墳−龍頭里古墳
【2月18日】
木浦大学校博物館(月出山祭祀遺跡出土遺物調査)−国立海洋遺物展示館−霊岩里鳩林の窯址−霊岩土器文化センター
【2月19日】
高麗大学博物館を訪問−海上王張保皐紀念事業会(ソウル市) 


◇第2回調査◇

【5月1日】
光州市月桂洞古墳1号墳・2号墳−明花洞古墳 
【5月2日】
潭陽声月里古墳−潭陽古城里1号墳・3号墳−長城鈴泉里古墳−咸平新徳里古墳群−万家村古墳群−財団法人湖南文化財研究院
【5月3日】
咸平馬山里古墳群−務安高節里古墳−咸平長年里長鼓山古墳−咸平金山里方台形古墳−霊光月山里月桂古墳群−法聖湾
【5月4日】
可谷里羅本古墳群−九沙古墳群−高敞石南里古墳−壮山里1号墳・2号墳−霊光法聖面三堂里古墳−龍村里土城−龍村里トクコル里古墳群−霊岩徳山里古墳群
【5月5日】
高敞七岩里古墳−霊光大馬面城山里大成古墳群−大馬面支石墓群平金古墳群−中興古墳群−霊堂邑畝良面支石墓群−高敞鳳徳里古墳群
【5月6日】
扶安格浦里竹幕洞祭祀遺跡−高敞郡徳山里南塘古墳−知土里古墳群−井邑隠仙里三層石塔−隠仙里古墳群−国立全州博物館



5.調査の経過と成果

 本調査では、韓国西南部の全羅南道から全羅北道にかけて、とくに栄山江流域を中心とする地域に分布している前方後円墳とその周辺に分布する古墳群をおもな対象に選んで踏査し、それぞれの古墳がもつ墳丘の形態や埋葬施設の構造、そして副葬品などに示される葬送儀礼のあり方、また立地条件などの調査を通じて、周辺の百済や加耶との地域間交流を視野におきつつ、倭の時代の日本列島との交流の諸相にアプローチしていくことが調査の目的である。

 もとより、古代の全羅道地域は、海を渡る際の祈願の場所であった竹幕洞祭祀遺跡や統一新羅時代の清海鎮遺跡(莞島)が物語るように、中国のみならず、日本(倭)との海上交通の要衝であり、東アジアとの異文化間交流という巨視的な視座から、韓半島の歴史を考察するうえで、また同様の視点から日本列島の歴史を考察するうえで、きわめて重要な意味をもつ地域である。

 しかし、三国時代の全羅道地域に関する文献上の手がかりは、その地域史像に接近するためには乏しく、馬韓の一小国から国家へと成長を遂げた百済が領土を南に広げていく過程のなかで、百済に編入されていく地域(馬韓の残存勢力)として扱われることもしばしばである。これに対して、最近の考古学の成果は大型の甕棺墓を埋葬主体とした独自の葬送文化をもつ全羅道地域の文化圏の形成と展開を解き明かし、また同時に百済的な墓制が入り込む過程を明らかにしている。これにともない、百済・加耶・倭などの諸地域との政治的・文化的な交流の展開に対する歴史学的な究明が可能になりつつあるといえる。


 今回の調査では、対象地や行程の検討をはじめとして、韓国慶北大学校の朴天秀氏の全面的な協力を頂き、円滑な調査活動を行うことができた。全羅道地域には、近年発見された高敞七岩里古墳、潭陽古城里古墳、潭陽声月里古墳の3基を含めて、合計13基の前方後円墳が確認されている。これらの古墳は未調査のものもあり、現時点では全ての詳細を窺い知ることはできないが、2回の踏査でこれらをすべて実見し、朴天秀氏のレクチャーにより、周辺に分布する古墳群との関係を知ることができた。


〔第1回調査〕

 2月に実施した第1回調査では、主に全羅南道南部の羅州・海南地方を中心に活動した。この地域の在地勢力によって、築造された墳墓としては、調査初日に実見した羅州伏岩里古墳群・羅州潘南古墳群が代表的なものであり、北部九州との交渉を窺わせる副葬品も出土するなどその対外交流が注目される。

 3世紀中葉〜7世紀代にかけて継続して古墳が築造された伏岩里古墳群は、本来10基あったが、現在は4基を残すのみになっている。1996年に調査された3号墳では、石室が確認され、北部九州の横穴式石室と関係を有するものとして注目される。また九州のそれとの類縁性を示す壺型埴輪が見つかり、倭系と思われる大刀や、環頭大刀なども副葬されていた。
 潘南古墳群は、紫微山を囲む台地に造営された新村里古墳群・大安里古墳群・徳山里古墳群を指す。これらは5〜6世紀代の首長墓であり、副葬品には百済系の金銅製品などが含まれている。新村里古墳群の9号墳は1930年代に谷井済一による発掘調査で、倭系の円筒型埴輪が出土している。ただし埴輪をタタキなどの製作技法からみれば、製作者は倭人ではなく、在地の人が関与したと見られる。またこのほか、沃野里古墳群・新燕里古墳群を踏査した。朴天秀氏の見解では、韓半島の前方後円墳は、その出現以前に形成された在地勢力の墳墓系列とは距離を置きながら、突如として現れるということであった。

 第1回の調査では、霊岩チャラボン古墳・海南方山里長鼓山墳・龍頭里古墳の3つの前方後円墳を調査した。以下ではこれらの古墳の特徴と、周辺の古墳群との関係を中心に整理する。

 霊岩チャラボン古墳は、都浦湾内の海抜5〜7mの地点に築造された前方後円墳である。石室は長さに比べて幅が広く、持ち送り式の可能性も考えられるという。5世紀後半〜6世紀の築造である。前方部が削り取られているため、全長は40m内外であるが、本来は50mほどに達していたとみられる。また、おそらくは周溝と思われる痕跡が墳丘側面に確認された。古墳は、鉄鋌の出土により加耶との交易・交流が注目される4世紀〜5世紀前半の古墳である沃野里古墳群や、万樹里古墳群・内洞里古墳群から離れた地点に出現する。

 海南方山里長鼓山古墳は、韓半島の前方後円墳のうち最南端に位置する。全長は約77mで、石室にはベンガラが塗られているが、これは韓半島にはない葬制で、倭の影響と考えられる。築造時期は5世紀第4四半期〜6世紀第1四半期で、同時期の日本列島内の古墳と比べても規模が大きい。長鼓山古墳と同時期の墳墓で倭との交流を窺わせる墓制・副葬品をもつものとしては、新月里古墳・龍頭里古墳・月松里造山古墳・北門龍日里古墳・外島箱式石棺墓1・2号墳があり、これらを踏査した。
 新月里古墳は、城馬山北麓に位置する方墳である。墳墓表面に葺石が確認される。墳墓に石を葺くのは韓半島にめずらしく、倭の影響を受けていると見られる。北門龍日里古墳は、横穴式石室をもつ可能性がある古墳で、表面採取された土器から長鼓山古墳と同じ時期に造られた古墳と見られる。月松里造山古墳は、6世紀初頭の築造と推測される。それまで古墳が造られていた日平里の古墳群から離れ、あまり古墳が造られていなかった地域に築造される。横穴式石室で、腰石・立柱石・しきみ石をもつ。6世紀代に何度か埋葬があったとみられ、副葬品として、百済土器・馬具・武器などとともに、ゴホウラの貝釧(青銅製の錨で破損部分を修復)・仿製鏡などが出土している。ゴホウラや鏡は倭からもたらされたもので、とくに、それまでの韓半島ではゴホウラなど貝製の装身具は威信財ではなかったことから、埋葬者が倭人であった可能性もある。外島の1・2号墳は、箱式石棺墓であるが、この墓制は栄山江流域に見られないものである。倭系かと思われる短甲・長鼓山古墳の年代よりも若干古い大刀、空堀りの溝などが確認されている。箱式石棺墓は北部九州にみられる墓制である。龍頭里古墳は三山川水系に分布し、海倉湾周辺の集落よりも内陸に築造された前方後円墳である。近隣の住民の話によれば、昔は古墳のなかに入ったことがあったということから、横穴式石室の可能性が高い。
 

〔第2回調査〕
 第1回調査では全羅南道南部を中心に活動したのに対して、5月に実施した第2回調査では、全羅南道北部から全羅北道の前方後円墳を中心に調査した。

 まず、光州市内の明花洞古墳、月桂洞古墳1号墳・2号墳の3基の前方後円墳を踏査した。これらの古墳は、前方部が扇形に開いた墳形をとるのが特徴である。明花洞古墳は、発掘調査時に埴輪が出土している。墳墓が民家建築により崩壊し、石室に利用された石が露出している。前方部は道に切られているのかどうか判然としない状況であった。月桂洞古墳が長鼓墳とも呼ばれていた。横穴式石室の構造をもち、天井石や門柱石などに6世紀第2四半期の特徴が窺われる。1号墳、2号墳ともに周溝をもち、これらも周辺地域の首長墓とは系譜を異にし、突如この地に築造された。また前方後円墳のほか、隣接して同時期の円墳が築造されていた。この円墳は現在破壊され、実見できなかった。

 次いで調査した潭陽声月里古墳は、近年発見された前方後円墳である。栄山江を遡行して、大加耶との交通関係を想定できる地に築造された。墳丘は周囲の耕作地に削り取られて残りが悪いが、後円部に石室に利用されたと思われる石材が残っている。

 潭陽古城里古墳1号墳も前方後円墳である。現在の測量図では判然としないが、ホタテ貝式のように前方部が短い。また後円部の周囲に周溝の痕跡がある。なお、3号墳は列石をもつ円墳である。

 長城鈴泉古墳は、古城里古墳から15Km離れた地点に築造された古墳で、現在は宝海食品工場の敷地内にある。もとは工場敷地の丘陵突端にあったが、施設建築のために移されて保存されている。墳形は直径17mの円墳で、長方形の横穴式石室をもつ。門柱石などが熊本県の臼塚古墳などと類似しており、柱石を2枚用いるなどの特徴をもつ。百済系の金製耳飾のほか、祭祀遺物も出土している。

 咸平礼徳里古墳は1991年に光州博物館が調査を実施した古墳で、その石室の系譜については漢城期の百済説と九州説がある。遺物からは武寧王陵(公州宋山里)の下の位にランク付けされる。土器編年から6世紀第1四半期の築造と見られ、百済系の技術をもつ馬具のほか、倭系の環頭大刀、胸当を副葬品とする。葺石・版築・周溝が検出されている。また木棺には移動を可能にする金具があり、これは葬送儀礼に関わるものと考えられる。1号墳の周溝に隣接して営まれた2号墳は、円墳で陵山里古墳群と同じく泗沘式の石室であり、墳丘が大きい。いずれも見晴らしの良好な台地に立地している。旧交通路である仏甲川を通じて、西海(黄海)に出ることが可能で、栄山江流域の複雑な政治関係があるが、在地の首長層ではないとみられる。

 古墳の近くには、3世紀以来築造された万家村古墳群がある。この古墳群は長方形ないし方台形の形状で周溝をもつのが特徴である。同じく周溝をもつ韓国の前方後円墳が、日本の前方後円墳に淵源をもつのではなく、韓半島独自の墓制として発展したとする学説の論拠になっている。

 咸平馬山里古墳群は、測量図のみがあり、未調査の古墳である。横穴式石室をもつ前方後円墳の可能性がある。2号墳は盗掘を受けており、土器片から5〜6世紀の築造と考えられる。1号墳は削り取られて破損が激しいが、盗掘痕から横穴式石室と考えられ、周溝・別区が存在した可能性もある。韓半島では前方後円墳が築造される最後の時期にあたり、7〜8基ある周辺の古墳は、1号墳築造後に築かれたと見られ、在地勢力が前方後円墳の墳形を取り入れたとも考えられる。

 咸平長年里長鼓山古墳は、標高50mの丘陵の南面に立地し、楕円状の後円部をもつ。全長は70mで、頂上部は平坦で腰部に破損が見られる。腰部から埴輪が出土しており、年代は6世紀代と見られる。この古墳は近代の干拓により周辺は農地化しているが、古墳は海がすぐそこに迫っていた。周辺には、米出里古墳があり、時期は不明だが、葺石をもち、周溝も存在した可能性がある。長鼓山古墳と同時期のものか、あるいは長鼓山古墳出現後に築造されたものともみられる。

 これらの前方後円墳が出現する以前の、栄山江流域の墓制として、3世紀〜4世紀代の甕棺墓である可谷里古墳群・羅本古墳群、また羅本古墳群とは丘陵を挟んで立地し、甕棺墓から副葬品として鉄鋌が出土している九沙古墳群、高敞石南里古墳群、壮山里古墳群、霊光法聖面三堂里古墳、霊岩徳山里古墳、霊堂邑畝良面支石墓群などを調査した。そのほとんどは海の見える丘陵地に立地している。海岸線はリアス式の海岸であり、現在の平地は先史〜古代には海が入り込み、小規模な集団が海を挟んで谷地に集落を形成して、漁撈や交易を生業として生活していたと考えられる。高敞鳳徳里古墳群は、5世紀代の盟主墓と目される1辺50mの墳墓を中心にした古墳群である。高敞地域の在地勢力の中心地であるが、ここには前方後円墳は形成されず、それとは一線を画した土地に高敞七岩里古墳や霊光月山里月桂古墳が築造される。

 その高敞七岩里古墳は、近年確認された前方後円墳で、韓半島では最北に位置する前方後円墳である。2002年には埴輪片が採取されている。草木に覆われ、墳形を十分に確認できなかったが、石室の一部が露出しており、周溝・周堤などを確認することができた。墳丘の規模としては海南方山里長鼓山古墳と同じである。5月2日に財団法人湖南文化研究院を訪問して、ここから出土した加耶系の土器などを観察することができた。また、霊光月山里月桂古墳は、七岩里古墳の南に位置する前方後円墳である。ともに栄山江流域から離れ、法聖湾に流れ込む河川の流域に形成された古墳である。七岩里古墳とは水系を異にして分布する。全南大学校の分布調査時に確認されたものであるが、周辺に4世紀以前の古墳群はない。
 調査の最後に扶安格浦里の竹幕洞祭祀遺跡を調査した。海崖に祠堂があり、現在でも信仰の対象となっている。古代以来、黄海を経て中国に向かう海上交通のための祭祀場であり、日本の沖の島祭祀遺跡などとの関連も注目されている。同遺跡を踏査するとともに、調査した国立全州博物館を訪問して、滑石製模造品などの倭系遺物、土馬、鉄鉾などを調査できた。また関連して、2月の調査時には、木浦大学校博物館を訪問して霊岩月出山祭祀遺跡を調査した。

〔その他〕
 2月16日に、新羅時代以降の対外交流の一拠点として知られる全羅南道莞島郡将島清海鎮遺跡の調査を行なった。同遺跡は、1989年以来国立文化財研究所の手により調査がすすめられてきた。今回の調査では、莞島郡庁の方々の現地案内、発掘成果、今後の遺跡保存等について説明を受けるとともに、島内から出土した土城の版築址・建物址、島の海岸線に沿ってめぐらされた木柵列、高麗時代、島の対岸に建立された法華寺址などを踏査した。
新羅時代に、この島を拠点として活動したのは、2002年12月中国山東省で調査した赤山法花院の建立者張宝高である。張宝高は、9世紀の中頃、清海鎮と山東半島と北部九州を結ぶ交易活動を行った人物として知られる。日本・中国・朝鮮の交流文化を考えるうえで重要な遺跡として注目されるが、同時代のものとしては、人為的に地中に鉄製鼎や大壷などの祭祀具を埋納した遺物・遺構が出土している程度であった。

 2月16日、康津青磁資料博物館にて、陶磁器に付された記号を調査した。それらのほとんどは、陶磁器の製作過程で出荷のために刻された窯記号などであることを確認した。2002年11月に調査を実施した鹿児島県大島郡伊仙町のカムィ焼、同古窯群との関連性が指摘されている8世紀〜9世紀代の霊厳里鳩林の土器に関して、2月18日に窯址とともに出土した土器群の踏査を実施するとともに、霊厳土器文化センターを訪問し、出土遺物を調査した。


◎拠点形成のための活動
 2月19日、高麗大学校博物館を訪問し、崔光植館長(韓国古代祭祀の研究者)に会い、21世紀COEプログラムへの協力を要請する。また海上王張保皐紀念事業会を訪問した。金文経会長・金在哲理事長と面会して、21世紀COEプログラムへの協力を要請した。
                       
                               
◇写真 韓国の前方後円墳◇

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海南長鼓山古墳

海南長鼓山古墳


N尭里古墳

龍頭里古墳


じ州明花洞古墳

明花洞


ジ州月桂洞古墳 1号墳

月桂洞1号墳


Ω州月桂洞古墳 2号墳

月桂洞2号墳



н陽声月里古墳

声月里



潭陽古城里古墳

古城里



咸平礼徳里新徳古墳1号墳

礼徳里新徳



咸平長年里長鼓山古墳

咸平長鼓山



咸平馬山里杓山古墳群

馬山里



高敞七岩里古墳
七岩里



霊光月山里月桂古墳

月山里月桂古墳



文責・山崎雅稔

 
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